大阪に在る教会ホームページ-霊の渇き-





霊的な渇き

 どんなものでも、この霊の必要にとって代わることはできません。渇いている時、ダイヤモンドを持ってきて、この一杯の冷たい水に代えることができるでしょうか? 例えば、東京の至る所で水が汚染されている時、わたしがこのコップ一杯の水を得たとします。「リーさん、わたしはあなたにこのダイヤモンドをあげます。その代わりに、その一杯の水を下さい」と言うでしょう。それはダイヤモンドが良いか悪いかの問題ではありません。ダイヤモンドが役に立つか立たないかの問題です。それはきれいですが、渇きをとめることはできません。ダイヤモンドを見れば見るほど、内側は渇いてきます。ダイヤモンドが悪いというのではありませんが、それは渇きをいやすことができません。わたしたちの内側に霊的な渇きがあります。この渇きは神に対する渇きです。物質的なものに渇くのではありません。わたしたちは神に渇いているのです。


生ける水である主イエス

 ヨハネによる福音書第四章で、主はある日、サマリヤの婦人と、この渇く問題を話し合われました。これはとても興味深いことです。主イエスは何でも知っておられる神です。彼は昼間サマリヤに来られました。そこには昔から伝わってきたヤコブの井戸があります。主イエスは、そのサマリヤに一人の女がいて、そこで水をくみに来るのを知っておられました。このサマリヤの女は、神が選んだ人、神が定めた人です。主はその井戸の所で、彼女を待っておられました。すると、彼女はやって来て主イエスを見ましたが、やはり普通のナザレ人のように見えたので、彼女は主イエスを相手にしませんでした。彼女には、主イエスに何の関心もありませんでした。ところが、主イエスのほうから彼女に、「わたしに飲ませてください」と言って、彼女に近づき、会話が始まりました。主イエスは彼女に、「この水を飲む者はだれでも、また渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して永遠に渇くことはない」と言われました。とても不思議なことに、話せば話すほど、彼女はこの人の話に引き付けられます。ついに彼女は主に向かって、「わたしが渇くことがなく、ここにくみに来なくてもよいように、その水をわたしに下さい」と願いました。主イエスの答えがまた不思議です。「あなたはわたしに水を、生ける水を求めます。それで、わたしはあなたに夫を求めます。あなたは帰って行って、夫を連れて来なさい」。彼女の夫とは、彼女の人生の歴史です。彼女が犯した罪の歴史です。主イエスは彼女が自分の背景を公にすることはできないことをご存じです。その上で主は、「あなたはわたしに生ける水を求めます。わたしはあなたにあなたの夫をここに連れて来ることを求めます。そうすれば、わたしは生ける水を与えます」と言われました。これはどういう意味でしょうか?「あなたは生ける水を求めますか? それならあなたの罪を告白しなさい。あなたの罪をわたしに下さい。そうすれば、わたしは生ける水をあなたに与えましょう」という意味です。この女の人はとても利口です。彼女は実際のことを言って、主イエスをだましました。彼女は本当のうそつきです。彼女は本当のことを言ったのですが、それは人をだますためでした。彼女は、「主よ、わたしには夫はいません」と非常に意味のあることを言いました。主は、「夫を連れてきなさい」と言われます。ところが彼女は、「わたしには夫はいません」と答えます。これは本当のことですか、それともうそですか? この言葉は本当のことです。しかし、主をだまそうとしたのです。本当のことで人をだまそうとしたのです。これは巧妙なだましごとです。ところが、主イエスをだますことはできません。主イエスはすぐに言われました、「夫がいないと言ったのはもっともだ。あなたには五人の夫がいたが、今いるのはあなたの夫ではないからだ」。この主イエスの言葉を聞いて、彼女は驚きました。彼女にはかつて五人の夫がいたのです。ところが今あるのは夫ではありません。主の言葉は彼女の良心に触れました。彼女は、「わたしはメシヤが来られることを知っております」と言って心を開いた時、主は、「あなたと話をしているこのわたしが、それである」と言って、生ける水を示しました。わたしたちはみなこのことを知っているように、この日、彼女は生ける水である主イエスを得たのです。


神だけが満たし得る

 今日、あなたは物質的にも精神的にも必要を満たすことができるでしょう。ところが、あなたにはまだ霊的な必要があります。あなたには物質的な楽しみもあれば、精神的な楽しみもあるでしょう。各種類の楽しみがあります。それらが多ければ多いほど、あなたの内なる深みにむなしさを覚えます。人が成功して有名になったとします。すべての物があり余っています。しかし、彼は夜中に不安を感じて跳び起きることがあります。そして、彼の内側の深みに、まだ何か必要なものがあることを見いだすでしょう。この必要は物質的な物でも精神的なものでもありません。それらのものはすでに十分得ているのですが、なお深みで感じるこの必要は、ただ神だけが満たし得るものです。人の内側には霊があります。それは奥深い所の霊の渇きです。ある日、「おお、主イエスよ!」と主の御名を呼び求めた時、内側が真に満たされたと、千万の人がみな証しをすることができます。


イエスは神である

 神が造られた人の外側は神の姿に似せて造られました。また人の内側には霊があります。それは人に神を啓示させるものです。神がおられるということも、万物は神の創造であるということも確かです。また、わたしたちクリスチャンはみな、この神が、ある日、ひとりの人となって飼葉桶に生まれたということを承認します。彼は成長して三十歳になった時、宣教に出て、何度も自分が神であると明らかに、またそれとなく言われました。人類の歴史を見たり、多くの本を読んでわかるように、どんな聖者であれ、大哲学者であれ、自分が神であると言った人はありません。孔子は東方の大哲学者ですが、自分は神であると言い切ったことはありません。むしろ彼は、「わたしは天に対して罪を得たので祈ることはできない」と言っています。ソクラテスもマホメットも自分が神であるとは言いません。人類の本の中でただ一人だけが、自分は神であると言い切っています。その方はどなたですか? その方はナザレのイエスです。イエスは再三、ご自分は神であると言われました。では彼は神でしょうか? ヨハネによる福音書を読めば、はっきりするでしょう。別の説明をしなくても、彼がどんなに多くの奇跡を行なったかを言わなくても、この福音書でイエスの言われた簡単な言葉をしっかり読みさえすれば、すぐにわかるでしょう。「わたしは世の光である」。「わたしに従う者は、決して暗やみの中を歩くことがなく、命の光を持つ」。この言葉は何と簡単でしょう。「わたしは世の光である」。とても簡単です。しかし、この言葉は大きくはないでしょうか? そうです。この言葉は本当に大きい言葉です。孔子は人に「わたしは世の光である」とは言いません。マホメットもこのようなことは言いません。いかなる聖人も哲学者も、だれ一人このようなことを言いません。なぜなら彼らはそうではないからです。イエスは「世の光である」と言われたばかりではなく、「わたしは命である」とも言われました。「わたしは命である」。これもまた、とても簡単な言葉です。ところが、この言葉はさらに大きな言葉です。余りにも偉大な言葉です。もしわたしが今晩、あなたがたの間に来て、「わたしは光である」、「わたしは命である」と言ったとしたら、あなたがたはきっと、「行け、あなたは気違いだ。あなたには頭の病気がある」と言うでしょう。あなたはかつて「わたしは神である」、「わたしは光である」、「わたしは命である」などという言葉を聞いたことがありますか? 人類の歴史において、こんなことを言った人は、一人の人を除いてありません。その方はナザレ人イエスです。彼は再三再四、わたしは神である、わたしは命である、わたしは光であると言われました。では彼は神でしょうか。彼は命でしょうか。彼は神であると言います。そうです。彼は本当に神なのです。



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