大阪に在る教会-教会の歴史5-





ヂンゼンドルフとモラビア兄弟団での、
聖霊の一致における教会生活の初期の段階の回復


 歴史は、多くの追い求める人たちの内に、正当な教会生活に対する願いがあったことを示しています。彼らはこの内側の願いを表現することができませんでした。しかし実は、彼らの中に正当な教会生活を追い求め、捜し求める何かがあったのです。第十八世紀に、主はヂンゼンドルフ伯爵の指導の下にあったモラビア兄弟団の間で動いて、教会生活の実行のあるものを回復されました。これらのモラビア兄弟団は、ローマ・カトリック教会だけでなく、国家教会からも迫害を受けました。彼らは真理に立ったために、迫害されたのです。そして彼らはサクソニーのヂンゼンドルフの領地に、保護を求めて逃れました。ヂンゼンドルフ伯爵は、主に対する愛のゆえに、さまざまな背景から来られたこれらの追い求める者たちの多くを受け入れました。これらの兄弟たちは、彼らの教理上の違いから、争い始めました。ある日、ヂンゼンドルフ伯爵は、協議会を召集して、彼らにそれぞれの教理上の異なる意見を落とすよう、説得しました。彼らは、彼らの間の一致を保ち、自分たちの教理上の、宗教的背景の違いを放棄する、という協定に署名しました。その後、彼らが主の食卓に着いていた時、聖霊の注ぎを経験しました。その時までの教会歴史において、彼らの間に、最強のリバイバルがありました。そして彼らは、地上での最も有力なクリスチャングループの一つとなりました。ジョン・ウェスレーでさえ、彼らを通して救われました。彼はある期間、これらの兄弟団と共にいました。彼は、もし英国に対する負担がなかったなら、全生涯をモラビア兄弟団と共に過ごしたであろう、と言いました。わたしたちの知識によれば、初期の使徒たちの時代以来、モラビア兄弟団は、教会生活を幾らかでも正当な方法で実現する最初のクリスチャンの群れであった、と考えられます。こういうわけで、神の祝福が彼らの上に注ぎ出されました。彼らはある程度、教会生活の実行を享受したとはいえ、教会に関する真理の多くの面については、まだはっきりしていませんでした。


ブラザレンで回復された教会生活

 第十九世紀に、1825年から1828年にかけて、主はジョン・ネルソン・ダービー(John Nelson Darby)の下にいわゆるブラザレンを起こされました。D・M・パントン(D.M.Panton)は、ブラザレンの運動とその意義は、宗教改革よりはるかに偉大であった、と言いました。宗教改革は幾らかこの世的でした。なぜならそれは、人の政府と連合したからです。ところが、ブラザレンの間の動きは、真に霊的なものでした。彼らは主のための彼らの働きにおいて、どんな広告をもすることを好みませんでした。J・N・ダービーの一枚の写真を見つけることでさえ、困難です。ブラザレンの多くは、写真を撮るのは世俗的な行為であると感じました。残念ながら、ブラザレンの黄金時代は、ほんの短期間、続いただけでした。やがて、彼らの間に亀裂が生じました。最初の分裂は、J・N・ダービーとベンジャミン・ニュートンとの間にありました。彼らの論争は、信者たちの携え上げについてでした。ダービーは、患難前の携え上げについて強硬でしたが、ニュートンは、患難後の携え上げについて強硬でした。
 その後、彼らの間に亀裂がありました。この分裂は、いわゆる閉鎖的ブラザレンと開放的ブラザレンとの間でした。ジョージ・ミュラーは、ブラザレンの間で指導的兄弟の一人でした。彼は真の神の人でした。彼は、第十九世紀における信仰の王と呼ばれました。彼はとても多く主と共にありましたが、彼の理解とダービーの認識との間には、大きな食い違いがありました。ダービーと彼の追従者たちは、宗派に依然として加入しているどんなクリスチャンも、受け入れないことを主張しました。彼らはすべての宗派を罪、悪と考えました。こうして彼らの目には、いかに善良で霊的な人物であっても、宗派にとどまっている限り、この悪の仲間であると見なされました。彼らは宗派の中のクリスチャンを悪の仲間と見なして、受け入れようとはしませんでした。彼は宗派にかかわりのある多くの親愛なる聖徒たちも、やはりとても主に近い、と言いました。彼はこれらの信者たちは拒絶され得ないし、彼らは受け入れられなければならない、と主張しました。これがダービーとミュラーとの間の食い違いでした。そしてそれはブラザレンの間に、もう一つの分裂を引き起こしました。こうして、この時までに、ブラザレンの間に三つの主要なグループがありました。すなわち、ベンジャミン・ニュートンのグループ、閉鎖的ブラザレン、開放的ブラザレンです。この国(アメリカ合衆国)のいわゆるプリマス・ブラザレンは、おもに開放的ブラザレンのことを言います。1828年のブラザレンの形成の後、九十年のうちに、彼らは百以上の分派に分けられました。今日のブラザレンの間には、あらゆる種類の分派があります。わたしは彼らの間の一人の姉妹から、ブラザレンの一グループは集会にオルガンを使うかどうかで分裂した、と告げられました。
 聖徒たちは教会歴史を通じて、携え上げについてさまざまな観念を持っていました。ある人は、患難前の携え上げを信じ、他の人は患難後の携え上げを信じ、さらに他の人は部分的携え上げ、すなわち、大患難の前と後に起こるものを信じました。40年前、わたしは多くの時間を費やして、どの学派が最も聖書的であるかを研究しました。その当時、ニー兄弟は、携え上げに関する真理について、多くのメッセージをわたしたちに与えました。彼は携え上げに関する真理の三学派すべての中に見いだされる有名な信者たちの一覧表を与えました。J・N・ダービー、ウィリアム・ケリー、R・A・トーレー、フィリップ・ブルックス、ジェームズ・グレー、アルノ・C・ガーベライン、J・A・サイス、D・L・ムーディー、C・I・スコフィールド、は、患難前の携え上げを信じた人たちです。ジョージ・ミュラー、A・J・ゴードン、A・B・シンプソン、W・J・エルトマン、W・G・ムアヘット、ヘンリー・フロスト、ジェームズ・ライト、ベンジャミン・ニュートンは、患難後の携え上げを信じました。ハドソン・テーラー、ロバート・チャップマン、ロナート・ガボット、D・M・パントン、G・H・ペンバー、パウル・レーダーは、勝利者の携え上げを信じました。それは部分的携え上げ、あるいは患難のさ中の携え上げと呼ばれています。パウル・レーダーは、シカゴのムーディー記念教会におけるR・A・トーレーの後継者でした。携え上げの真理についての、聖徒たちの間の教理上の違いは、多くの分裂を引き起こしました。
 ブラザレンの間の分裂の始まりは、携え上げについての不一致にあったとはいえ、彼らに啓示された真理は、主の子供たちすべてにとって、大いに益となりました。根本主義的キリスト教の神学の90パーセント以上は、ブラザレンの教えから来たと、わたしは申しましょう。アメリカ合衆国において、根本主義の神学校の多くは、C・I・スコフィールドの教えを用いています。スコフィールド博士は偉大な学者であり、ブラザレンの学徒でした。彼が自分の引照付き聖書や聖書通信講座で書いたもののほぼ90パーセントは、ブラザレンの教えから採用されました。D・L・ムーディーは、全世界のすべての書物が焼かれたとしても、一冊の聖書と、C・H・マッキントッシュによるモーセ五書の注解書を持てば、満足する、と言いました。C・H・マッキントッシュは、ブラザレンの間の偉大な教師でした。根本主義の各宗派がブラザレンの動きに同意する、しないにかかわらず、彼らの根本主義的教えは、ブラザレンの教えに多く影響されました。ある意味で、ブラザレンの教えは、いわゆる教会を助けました。ブラザレンの間の動きは、初めの頃は実に驚くべきものでした。これは、教会生活にとって大いなる助けとなった黄金時代でした。多くの霊的な、追い求めるクリスチャンは、これが啓示録第三章のヒラデルヒヤにある教会に対する主の手紙にある預言の成就の始まりであったということに、同意します。しかしながら、ブラザレンの教理に対する過剰な強調に基づいて、彼らは繰り返し繰り返し、分裂しました。




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